幸福とは? Vol.1 ギャップ・イヤーについてのインタビュー

“Gap year(ギャップ・イヤー)”という言葉をご存じだろうか。デンマークでは高等教育機関在学中や卒業後に学生が1年間もしくはそれ以上の休暇をとり、アルバイトや旅行にいくことは珍しくない。自由な時間を楽しむことや、職歴を積むことを通して将来の専攻やキャリアについて考える。今回は、合計で11年のギャップ・イヤーを取ったコペンハーゲン大学日本語学科3回生のHenrik Andersen(ヘンリック・アンデルセン)さんにインタビューしてみた。以下の文章は、B:林、H:ヘンリックの会話体とする。

 

 

B: そもそも、なぜギャップ・イヤーを取ったの?

 

H: 大体の人は自発的に取るけど、僕の場合は取らざるをなかったと言うべきかもしれない。というのも、やりたい勉強ができなかったことがきっかけ。今もそうだけど、昔から映画がすごく好きで映画制作の仕事に関わりたいと思っていた。でも、進学予定だった学校の映画を学べるコースが廃止になってしまって。それに、家族の助言がなかったから、他の道を見出せなかった。やりたいことを見失って、気づいたらgap yearを取っていたという感じかな。

 

B: ギャップ・イヤーの始めは何をしていたの?

 

H: 1年半の間、ずっとアパレルの卸売業者でバイトをしながら、好きな映画をひたすら見ていた。今と変わらず、年間500本のペースで見ていたよ。特に将来のことについて何も考えていなかったし、学びたいことも学べなかったから映画鑑賞以外にしたいことはなかった。今思えば、完全に引きこもりだよね。でも、昼はバイト、夜は映画鑑賞というルーティンなライフサイクルに危機感は感じていたし、ずっと実家から出たいと思っていた。

 

B: 人生の大きな転機みたいなものはあった?

 

H: 大量に映画を見ていく中、たまたま日本の「Vシネマ」を見たんだ。極道の映画だったんだけど、それがすごく僕にとって衝撃的で。他ジャンルにおいても、世界中の映画と比べて日本映画は言葉で言い表せないほど素晴らしいものが多かった。日本の文化や社会、そして日本人について知りたくなって、とりあえずイメージを掴むために日本へ1ヶ月間旅行してみた。 当時全く日本語が話せず、悔しい思いをしたよ。だからリベンジを決意して、デンマークへ帰国後、日本大使館に連絡して日本語学校のリストもらった。そして、東京で日本語を学ぶために再び渡日した 。1年間滞在したけど、 今みたいにSNSが発達していなかったためにせっかく仲良くなった人とも連絡を取り続けることが難しくて、語学学校内でしか人脈を築くことができなかった。でも、東京を散歩しながら将来について考えたことや、ゼロから勉強を始めて日本語能力試験の3級レベルになったことは大きな収穫だった。この時、人生で初めての一人暮らしをして、一人の時間や空間を持つという意味での「住まいが保障されている幸せ」を感じたよ。

 

B: いくつかの大きなターニング・ポイントがあったんだね。帰国後はどうしたの?

 

H: 映画とパソコンの2つの専門学校で1年ずつ勉強を終えたけど、どうしても日本のことが忘れられなくて3度目の来日を果たしたよ。もう、日本語を完璧にしたかった。1年間滞在で、日本語能力試験1級のレベルになった。本望だった。だから、このままずっと日本にいたかったけど、2008年のリーマンショックによる急激な円高で語学学校の学費が倍近くになってしまったから、帰国を余儀なくされた。でも、この時にぼんやりと将来のキャリアが見えてきた。だから、帰国後はVUC (Voksen Uddannelses Center)と呼ばれる所謂「キャリアアップのための大人の予備校」なところに入学して、コペンハーゲン大学の日本語学科に入学する少しずつ準備をし始めた。2年半で卒業して、コペンハーゲン大学に入学。この時、すでに27歳。気づけば11年も経過していた。

 

B: ギャップ・イヤーを通して経験したことが今どのように生きていると思う?そして、これからどのように活かしたい?

 

H: 去年の夏から今年の2月まで西南学院大学に交換留学したんだけど、ギャップ・イヤーで培った日本語の能力と日本文化や社会に対する知識を存分に生かした学びや人との交流ができた。例えば、交換留学中で授業のいくつかは日本語で受けたし、SNSの発達のおかげで、日本で自分のコミュニティーを持つことができた。要するに、社会性を持つことができるようになったということだね。11年間彷徨い続けた長い迷路から抜け出したようだった。来年は大阪大学に留学する予定だから、その時は「住まい」と卒業後の仕事を探したい。

 

B: ありがとうございました。

 

 

11年間の壮大なギャップ・イヤーを通して、住まいがあるという幸せを日本で見出し、再びその幸せを追い求める彼の姿を心から応援したい。